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先日、祖母の実家(三重のお寺)の法事に招待を受け初めてお邪魔しました。実の祖母は、二男を出産後すぐに亡くなってしまったそうです。その後祖父の界雄(前々住職)は再婚しました。私が記憶にある祖母は実際には血は繋がっていませんでしたが、実の孫と同じように深い愛情を持って育てていただきました。と同時に、実の祖母の話は良く聞いていました。そんな祖母の生まれ育った実家に縁あってお招きいただき、大変ありがたく思いながら、感慨深くお勤めをさせていただきました。私の父が、60年ほど前の写真を見つけ、祖母の実家へお持ちし、みなさんに見ていただきながら話をしました。皆さん懐かしそうに目を細めながらお話をしているのを聞きながら、私の命の足跡に触れた嬉しさを感じました。仏事とは、亡き人を偲び、自分の命に出会う大切な行事であると思います。

亡くなっても、その人の生き様を感じることで、心の中に再び命を宿す。それは、身近であり大切な人であれば尚更です。死は避けられないですが、死した人は、生きる私たちの心に再び命を宿し、生き続けることが出来ます。時には、その命が生きる道標になることもあるかもしれません。迷った時に一筋の光となるかもしれません。そんな一筋の光に出会ったような感じの法事でありました。合掌。

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ある実験の話。

2つのコップに水を入れて、1つのコップには肯定的な言葉をかけ続ける。もう1つのコップには否定的な言葉をかけ続ける。しばらく経つと、肯定的な言葉をかけ続けた水の結晶は綺麗な結晶となり、否定的な言葉をかけ続けた水の結晶は跡形もなく崩れてしまう。

人は、言葉によって勇気や気力が湧いてくることがある。逆に、言葉によって心に傷を負うこともある。人間は、70%は水分で出来ている。もしかしたら、自分の言葉も誰かの言葉も、頭で理解する部分と、体(心)が本能的に反応している部分と2種類あるのかもしれない。

そう思うと、私もそうだが、口からプラスのこともマイナスのことも、様々な思いや感情が言葉となって常に発せられている。口から出る+のこと、−なこと。これが「吐く」という漢字になる。弱音を吐く。愚痴を吐く。吐くとはあまり良い意味で使われないが、「吐く」という字から−(マイナス)をなくすと、「叶う」という漢字に変わる。

言葉遊びのようだが、もしかしたら実験の話を聞くと、口からマイナスな言葉を少なくすることで、本当に叶うこともあるかもしれない。

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「長い箸」という話があります。閻魔大王が、ある男に極楽と地獄の違いを実際に見せて説明する話です。実は、地獄も極楽も同じような環境で、同じように生活をしており、食事も極楽・地獄ともに同じ美味しそうな食事がテーブルに並べられていました。しかし、何故か地獄にいる人たちは痩せ細り、食事もろくに摂れていないような感じ。逆に極楽に住む人々は、ふっくらとしており、栄養がよく摂れている感じです。男は、その違いを食事の風景から理解しました。地獄も極楽も、食事の時は1メートルほどの長い箸を使うことが決められています。地獄に住む人々は、食事になると、腹一杯食べようと、必死に箸を使って食事を摂ろうとしますが、長い箸を使って自分の口に持っていくことは出来ず、どうしても食べることができません。そのうち、上手く食べられないことにイライラし始め、他の人たちと喧嘩をしたり、争い合うようになりました。一方極楽の人々は、長い箸を使い、相手の口へ食べ物を食べさせ合っているのでした。地獄と極楽の違いはただ一つ、食事の風景であったのです。


この「長い箸」の喩え話は、コロナ禍の今の世の中を表しているように思えます。「奪い合えば足らず、分かち合えば余る」という言葉があります。2020年が始まり8ヶ月が経ちコロナによる不安は今や人々の生活に常に付き纏い大きな影響をもたらしています。以前にあったマスク争奪戦。トイレットペーパー争奪戦。今はうがい薬争奪戦や○○警察などなど。不安が人々の心を侵食し、どんどんと拡がり、自分さえ良ければ…という心の感染症は、ある意味コロナによる感染爆発よりも深刻ではないでしょうか。

長い箸の話から感じることは、地獄も極楽も、死してからいく場所ではないということ。生きている私たちの今の世が地獄であり極楽であるということ。

今もそしてこれからも、闘う相手は人であらず、コロナであるということを忘れずに、奪い合うのではなく、分かち合う世を私たちが自ら生み出していかねばならないことだと思います。

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